感情に支配されない生き方‥

Vol.1 | 2025年6月16日

人生は予測できないことばかりが起こるものです。

突然のトラブル、計画を立てていたことが台無しになったり、思い通りにいかないことばかりです。また、人から受ける心ない言葉や裏切りもあるでしょう。

そんな嵐のような中にいても微動だにしないような人がいます。

何があっても心を乱されず落ち着き、揺ぎない眼差しで前を見つめる彼らは、特別な能力を持っているのでしょうか?それともただ鈍感なだけなのでしょうか?

いえ、そうじゃありません。

彼らが知っている何かが、ある多くの人が気づかない本質的な真実、それが心を不動に保つ鍵となっているのではないかと思います。

大半の人は人生に翻弄されながら生きています。交通渋滞で怒り、同僚の一言で1日が台無しになり、SNSのコメントに一喜一憂し、感情は常に外側によって揺さぶられ、自分の軸を見失ってしまうのです。

だけど、ほんの1つの視点が変われば世界の見え方が一転します。今日のコラムは、その視点を取り戻すための話です。

 ほとんどの人たちは、人生に"反応"して生きているといえます。

目の前の出来事に瞬時に心が動く、赤信号で舌打ちし、過去に親から言われた一言に傷つき、他人の態度に心を乱出される。

まるで自分という存在が外の世界に操られているかのように、誰かに無視されたら心が沈む、計画が狂えば怒りが込み上げる、思い通りにいかない状況に出会うたび感情が支配され、理性は置き去りにされるのです。

ですが、私は問いたいのです。本当にそれはあなたの感情なんですか?それともただ外の刺激に反応しているだけなんですか?

私たちは、自分でも気づかないうちに自分の感情の主導権を手放してしまいます。

その結果、世界が少しでも揺れれば自分も揺れる、誰かが機嫌を損ねれば自分まで不安になる。まるで世の中に振り回されながら生きているようなものです。

でも、その反応を選択する力が私たちにはあるはずです。それを思い出すことで揺るがない心への第一歩になります。

本当の問題は何が起きたかではありません。それをどう感じたか、そしてなぜそう感じたのか、そこに全てが隠されています。

誰かにバカだな、と言われて腹が立つのは言葉のせいじゃありません。心の奥のどこかで、自分には価値がないかもしれない、という影が潜んでいるからこそ、その言葉が突き刺さるのです。

誰かに無視されて傷つくのは、あなたが他人に認められたいという思いを手放していないからです。

つまり、外の出来事があなたを傷つけているのではありません、その出来事があなたの内にある未解決の傷や、見てみぬふりをしてきた感情を照らし出しているのです。

だから同じ状況にいても、ある人は怒り、ある人は笑い流す、違いは出来事ではないのです。その人が持つ内面のレンズなのです。

この世界は自分を写しだす鏡です。私たちの内側にあるものを外の出来事として写し出しているのです。

心が混乱していれば世界は騒がしく見えてします。心が穏やかであれば世界もまた静寂に包まれているように感じるはずです。

問題は外にはありません。全ては内にある心が乱れる時です。

それは世の中が悪いからではありません。それはあなたの中にまだ統合されていないものがあるというサインです。心を刺激する出来事は全て内側からのメッセージなのだと早く知るべきですね。

怒り、不安、嫉妬、焦り、私たちはこれらの感情を悪いものとして切り離そうとします。だだそれらは、見捨てられた感情ではなく、救いを求める声なんです。

この内なる声に耳を傾ける作業が必要です。それが"シャドウアーク"。つまり自分の中の見たくない部分、不完全で未熟だと感じる部分を、つらくてもあえて見つめ受け入れていくプロセスが必要なんです。

多くの人はこの作業を避ける代わりに、怒りを他人のせいにし、寂しさを外の愛で埋めようと必死になります。

それでは決して本質的な癒しにはいつまで経ってもたどり着かないですね。

トリガー(引き金・きっかけ)は敵ではありません。それは自分がずっと目を背けてきた心の片隅を照らす光なのです。

その光の下で自分自身と対話し始めたとき、初めて真の自由が訪れます。

自分の影に目を向けることは恐れを伴うことでもあります。だけど、その先にあるのは揺るがない静けさ、深い自己理解、深い自己信頼です。

心の自由とは、感情をなくすことではありません。怒りや悲しみを感じなくなることでもありません。それは感情に支配されないという境地です。

例えば、誰かに批判されたとき、その瞬間怒りや不快感が湧き上がるかもしれません。でもその感情をすぐに反応として外に放つ必要はないのです。

"私は今怒っている"と気づくだけでいいんです。その小さな気づきこそが自由への入り口なのです。

反応は本能的で瞬間的ですが、そこに選択の余地があることを思い出したとき、人は初めて主体性性を取り戻す反応をやめると、不思議な変化が起きてきます。

他人の言動が自分の感情を操作できなくなる騒がしい世界の中にいても、心の静けさを保てるようになります。嵐の中でも中心に静かな空間があるように、これは感情を否定する生き方ではありません。

感情を味わい、理解し、選び取る生き方です。その時、あなたは世の中に揺さぶられる存在ではなくなります。

自らの意で感情を超えて生きる存在へと変わっていきます。多くの人は全てをコントロールできれば安心できると信じています。

人間関係、評価、未来の出来事、思い通りに操作できれば傷つかずに済むでしょうが、現実はその逆ですね。

コントロールしようとするほど不安と緊張は増していきます。他人の機嫌を伺い、未来を悲観し、トラブルを避けようと神経をすり減らします。

そして思い通りに行かないときに感じるのは、怒り、焦り、絶望など。これは支配の欲がもたらす苦しみのスパイラルです。

本当の自由とはコントロールを手放す勇気から始まります。

誰にどう思われても、自分の価値は変わらない。未来がどう転んでも自分を信じる軸があれば進める。何が起きてもこの状況にどう応じるかは自分が決めるという確信。

これこそが真の力だと私は思います。

世の中は、予測不能で、不完全で、時に理不尽だけど、その中でただ1つ完全にコントロールできるものがあります。それは自分の認識の仕方です。

コントロールを求める人ほど世の中に振り回されます。ですが、それを手放した瞬間、初めて心は解放されていきます。不確かな中でこそ本物の強さが育つのです。

例えば、ある日同じ出来事が2人の人間に振りかかるとします。仕事で大きなミスをしてしまった。

1人は終わったと思い込み、もう信頼は戻らない途絶望する。

もう1人は、これは学ぶチャンスだと静かにどうすればいいかと模索する。

起きたことは全く同じでも、心の中の意味付けが違うだけで、その後の人生はまるで別方向へ進んでいくのです。

人は出来事そのものに反応しているのではありません。自分がどう解釈したかに反応しているのです。

誰かに無視されたとき、嫌われたと感じる人もいれば、きっと忙しいのだろうと受け流す人もいます。違いは、事実ではなく認知のレンズにあるのです。

このレンズは過去の経験や信念、無意識のストーリーによって形づられています。だからこそ何かに傷つくたびに自問してみてほしいのです。

これは本当に真実なのか。それとも私がそう思い込んでいるだけなのか。現実とはただの現象ではない、私たちの解釈というフィルターを通して形作られたものなんです。

つまり、レンズを変えれば世の中の色も変わります。出来事は変えられなくても見え方はいつでも変えられます。

それこそが認知という力の正体なんです。

私たちは日々何かに反応しているようでいて、実は無意識の人生物語に反応して生きているのです。

カールユングはこう言いました。

「無意識を意識化しない限り、それはあなたの人生を支配し、あなたはそれを運命と呼ぶだろう」、心の奥底には子どもの頃に受け取った言葉、親や周りから、そして社会から植えつけられた価値観、過去の傷によって築かれた自分という物語が存在します。

自分には才能がない。愛されるには努力が必要だ。人に嫌われたら終わりだ。これらは真実ではない信じ込んだストーリーです。

そしてそのストーリーが私たちの反応を決定付けているのです。誰かに軽く意見されただけで傷つくのは、その言葉が過去の痛みをなぞるからです。

ですが、そのストーリーは書き換えることができます。まずは、気づくことです。

私は、どんな物語を信じているのかと、そしてそれが本当に自分のものなのかを問い直すことです。

無意識に操られる人生から意識的に選び取る人生」その最初の一歩は、内なる声に耳を傾ける勇気から始まるのです。

次に、なぜ私たちはこんなにも簡単に傷ついてしまうのでしょうか?それは執着があるからです。

誰かに認められたい、理解されたい、愛されたい、その欲求がある限り私たちは他人の言動に心を奪われてしまいます。

誰かに褒められれば舞い上がり、無視されれば1日中そのことで頭がいっぱいになる。計画通りに進まないと焦り、怒り、落胆する。

全ての苦しみの種はこうあるべきだという思い込みです。

人は優しくあるべきだ!努力は報われるべきだ!自分は正しく評価されるべきだ!

だけど、現実はそう動いてはくれませんよ。

そのギャップに人は苦しむは相当多いですね。そして、その原因を外の世界に探すのです。でも本当は違います。苦しみの根は自分の中の"執着"にあることを早く気づいてほしいのです。

ではどうすればいいのか、それは執着を手放すことです。それは諦めではありません。むしろ深い信頼から生まれる選択です。

何が起きても私は大丈夫!評価されなくても私は価値のある存在だ!この確信を育てていけば執着は自然と薄れていきます。

執着を手放したとき、人生は驚くほど軽やかに楽しくなるはずです。

他人の反応に振り回されず、結果に怯えず、自分自身でいられる。その心の静けさこそが揺がない力の正体です。これは精神論ではありませんからね。

反応を手放すという力は実際に脳の構造に刻まれる現象でもあります。脳神経科学の研究によれば、私たちの脳は習慣的な反応によって神経経路が強化されていいき、怒りや不安、嫉妬など、毎回同じように反応しているのです。

その反応が自動化され、やがて無意識にスイッチが入るようになるのです。

しかし朗報があります。この経路は再構築できるのです。マインドフルネス、認知行動療法、そして意識的な観察習慣によって、脳は新たな反応パターンを学び、古い習慣を上書きしていくのです。

つまり、反応に支配されない新しい自分は、練習によって育てることができるということです。心理学でも同様です。ABC理論によると、感情Cは、出来事Aではなく、信念Bによって生まれます。

私たちが苦しむのは出来事ではなく、これは最悪だ、こうあるべきだ、という自動思考なのです。

感情の主導権を握り直すには、まずその思考に気づくことです。そして反射的な反応ではなく、選び取った意識的な行動を積み重ねていくことです。

科学は教えてくれています。揺がない心は才能ではなく、繰り返しの反復、習慣だと。

怒り、悲しみ、不安、焦り、それらが心をかき乱すとき、私たちはその渦の中に飲み込まれ、自分を見失ったと感じてしまいます。

ですが、少し視点を変えてみて欲しいのです。感情は嵐です。そしてあなたの本質は、その嵐の上空に広がる空のような存在です。雷が鳴り響いても、風が木々を揺らしても、そのさらに上にある空は静かで何も変わりません。

あなたの心の奥にもそのきれいな空があります。日常のあらゆる出来事が嵐のように吹き荒れても、その中心には揺がぬ場所、安心できる場所があるのです。

多くの人は感情そのものが自分だと誤解しているようです。怒っている自分、落ち込んでいる自分、それが全てだと思い込むのです。でも本当は違いますよ!

あなたは怒りを感じていることに気づいているのです。それは悲しみを見つめている意識なのです。感情を否定するのではなく、それに飲み込まれない視点を持つことです。

それが自己の中心に戻るということです。嵐はやがて過ぎ去ります。きれいな空はいつだってあなたの上にあります。

変わらぬ広さと静けさと共に、最終的に全ての鍵はその瞬間にあるのです。

何かがあなたを刺激し、感情が湧き上がる。その時、反射的に反応するのか、それともひと呼吸を置いて、今何が起きているのかと観察するのか、このわずかな間こそが自由への入り口なのです。

その瞬間に気づく力、それがリアルタイムの自己観察、メタ認知という力です。

例えば、誰かがあなたにきつい言葉を投げかけてきたとしましょう。従来のあなたなら怒りや防御反応が即座に出ていたかもしれません。でも新しいあなたは、そこで一歩下がり、こう問いかけます。

今、私の中で何が反応しているのだろう?なぜこの言葉に心が動いたのだろう?この内なるあなたを感情の奴隷から自己のマスターへと導くのどす。

そして、その観察が繰り返される度に、あなたの中に揺ぎない軸が育っていきます。

世の中は変わらない。人も出来事もあなたの思い通りには動かない。

だけど、あなた自身のあり方はいつだって選ぶことができます。その選択を日々瞬間ごとに重ねていくことです。

それこそが揺がぬ真の道であり、本当の意味で自分の人生を生きるということなのです。

今のあなたの選択が未来を作ります。今日この瞬間から反応ではなく、観察すること意識して選びましょう!


終わりに‥

感情に反応するのは、もう終わりです。怒り、不安、焦り、嫉妬。あなたの人生を苦しめているのは「出来事」ではなく、それに反応してしまう"自分自身のパターン"です。

 このコラムでは、心理学・脳神経科学・カール・ユングの哲学などをもとに、感情に支配されない「揺るがない心」の作り方をお話ししてきました。 

最後まで読んでいただき、ありがうございました!